見えざる聴衆と、ひとつの音

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放課後、あの部屋に近づくと いつも微かな弦の響きが空気を満たしていました。
誰かが調律をしている音、誰かが静かに旋律をなぞっている音。
その重なりは、まるで目に見えない織物のように 私たちの日常をやさしく包んでいました。

大会を控えた合宿では、朝目覚めると誰もが自然と弦に手を伸ばす。
夢の中でも練習していたような感覚が残るまま、私たちは音に没頭していきました。
時間の感覚がほどけていく中で、空間そのものが変わっていくのを感じ。
音が研ぎ澄まされ、ひとつに溶け合うとき——そこに、何かが現れます。

最初は、霊感のある数人だけが気づいていました。
人の形をした黒いもやのような存在が、音に引き寄せられるように現れはじめたのでした。
一人、また一人と増えていき、やがて体育館の四方を囲むほどに。
それは恐ろしいものではなく、ただ静かに、こちらの音に耳を澄ませているようでした。

「今回は、すごく良かったみたいだね」
その姿を捉えた人たちと、そんなふうに微笑み合ったのを覚えています。

不思議なことに、大会が近づくにつれて、それまで何も感じなかった部員たちの中にも、
「あれ……なんか、いたよね?」と口にする者が現れはじめたのです。

あの世とこの世の境界は、思っているよりずっと薄いのです。
心を澄ますと、 この世界のすぐ隣にあるもうひとつの層に気が付きます。

目には視えずとも私たちの響きに耳を傾ける存在たちです。
彼らは、音に宿る祈りや想いに引き寄せられ、 やがて私たちの内なる感覚の扉をそっと叩くのでした。

深く音に没入し音が一点に結ばれるとき、 —— それは、ただの演奏ではなく、祈りであり、扉をひらく鍵でもあります。
意識は静かに変容し、 ふだんは閉ざされている世界の輪郭が、かすかに浮かび上がる。
視えなかったものが、ふと姿を現し、 聴こえなかった声が心の奥に届いてくる
—— それは、魂がほんの少し、あちら側に触れた証だったのかもしれません。



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